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アッシジ、ウンブリア、イタリア

Rocca Maggiore 大城塞から町中に戻ったその足で、聖女キアラが the order of Poor Clares (日本語だと、女性のための救貧団体とでも言おうか)を創設し、生涯を過した San Damiano サン・ダミアーノへ向かった。

町中からどんどんと下り坂とは言え、ウンブリアの灼熱の太陽の下、かなりへとへとに疲れてきていたが、聖フランチェスコと聖女キアラの2人の生涯で最も重要な場所の一つに向かっていることを知っていたため何とか乗り切った。

道の両脇はずっとオリーヴ畑で、オリーブの木に登った修道士が子供たちを前に説教をしている光景がいくつか見られた。 そして、やっと "S. DAMIANO" という道標のところに来て、すぐそこまで来ているのだ、という実感があった。まるで、石畳の路地脇の糸杉たちが、「こちらだよ」と言わんばかりにあと少しの道のりを導いてくれているような気がした。
 

やっと着いた、サン・ダミアーノ修道院に。

1205 年の夏のある日、フランチェスコが古びて朽ちかけたサン・ダミアーノ教会で祈っていた時、イエス・キリストの十字架の板絵(現在は聖女キアラ聖堂が所蔵)から、「フランチェスコよ、この教会を修復してくれ」という神の声を聞いたのである。

フランチェスコはその声に従い、自分の手で教会を修復し、このサン・ダミアーノ教会を造り、そして聖女キアラと彼女の Poor Clares の女性たちが寝食を営めるよう、修道院として築き上げたのだ。

ここが聖フランチェスコが神の声を聞き、それに従って教会をリフォームし、聖女キアラが一生を過したところなのか。

修道院の内部は、まるで岩をくり抜いたような感じで決して広い空間は無かったが、建物の中央には小さな庭園があり、その中心には井戸があった。聖女キアラと彼女の信者たちは、贅沢や華美なものを全て棄て、ここで生涯を過したのである。

そして、修道院内部は狭い階段が続いていて、聖女キアラが亡くなった部屋に辿り着いた。その部屋の一角には、十字架があり、1253811日、この場所で聖女キアラの人生に終止符が打たれたことが記されていた。

聖女キアラの死去から2年後に、Pope Alexander IV アレグザンダ4世から Santa "聖" として列聖されたのだった。

 
修道院前には、聖女キアラの像。
修道院横の壁には、美しいフレスコ画があった。聖母子とその脇に立つ聖フランチェスコと聖女キアラ。

庭には聖フランチェスコが像があった。アッシジでは色々なところで聖フランチェスコの像を見たが、この聖フランチェスコ像は最も躍動的!

平穏なこの場所で、しばらく佇み瞑想。

 

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