Augustusplatz アウグストゥスプラッツから東へ 10 分ほど歩くと、ついに シューマン・ハウスに着いた。ロベルト・シューマンがクララ・ヴィークと結婚し、1840 年から 4 年間 この家で過し、彼の人生で最も幸せな時期と考えられている。 |
賑やかだったアウグストゥスプラッツとは打って変わり、辺りは静まり返っていた。 このシューマン・ハウスは、1838 年に建てられたらしいが、この建物も周りの環境も ほぼ当時のままの姿をとどめていると思われた。 |
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シューマン・ハウスの入口には、ロベルト・シューマンと 妻 クララ・ヴィークが描かれていた。
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玄関を入ると、壁には "ロベルト・シューマンとクララは 1840 年から 1844 年までこの家に住んでいた" と記載されたプラークが貼られていた。 |
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2 階に上がると受付があり、ロベルト・シューマンとクララ・ヴィークのレリーフがまず目に入った。 ようやくこのシューマン・ハウスに来れたことを実感し 嬉しく、受付係の人に頼んで写真を撮ってもらった。 |
しかも受付の内側の方に入らないとこのレリーフとの写真が撮れないため、特別に受付の内側に入れてくれた。 ロベルト・シューマンとクララ・ヴィークのレリーフと共に、写真を撮ってもらっている瞬間、まるでこのシューマン・ハウスのスタッフになったようで、 「ようこそ、シューマン・ハウスへ!」 という気分だった。 |
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部屋に入るとまず、シューマン家とヴィーク家の家系図が貼られていた。 |
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日本を含む殆どの国では、ロベルト・シューマンの方がロマン派の作曲家として知られており、クララ・ヴィークのことはその名前さえ殆ど知られていないが、19 世紀前半のヨーロッパでは、名実ともに遥かに大きな存在だったのは、ピアニスト 兼 作曲家、クララ・ヴィークの方であった。 実際、ドイツが通貨ユーロを導入する以前の通貨 ドイツマルク、その 100 マルク紙幣の表面のの肖像に 1989 年から 2002 年にかけて使われていたほどの存在だったのである。 クララは、ピアニスト 兼 歌手であった母 マリアンネから最初のピアノレッスンを受けた後、高名なピアノ教師であった父 フリードリヒのもとで 本格的にピアノを学ぶようになった。 |
一方、ロベルトの父 アウグストは書店や出版業を営んでおり、母 クリスティアーネは詩人であった。 ロベルトが 20 才の時、ピアノ教師 フリードリヒ・ヴィーク(クララの父)に弟子入りし、クララと出会うことになるが、ヴィーク家とシューマン家は、家柄や教育方針にあまりにも違いがあり、フリードリヒから結婚を大反対された。さらに 嫌がらせまでされ、裁判沙汰になるほどで、クララとロベルトの結婚は一筋縄ではいかなかったらしい。 そんな経緯もあり、ようやく結婚に至り 2 人で生活し始めたこの家での 4 年間は、ロベルトの生涯でも、やはり最も幸福な日々だったのだ。 そんな時期に、あの有名な "ピアノ協奏曲イ短調" も作曲された。
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このグランドピアノは、ロベルト・シューマンが亡くなった後の 1860 年に クララ・ヴィークのいとこ、ヴィルヘルム・ヴィークによって製作されたもので、クララが使用していた。 その横には、薄水色のクララの服。 |
隣の部屋には、クララの父、フリードリヒのピアノがあり、普段から父と娘で使っていたらしい。 ところで、この部屋も別の部屋も、ロベルトとクララが生活していた当時のまま改修されることなく今日に至っているようで、歩くたびに床板の軋む ギー、ギー という音がかえって心地良かった。 |
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さらに奥に進むと、部屋の入ってすぐの高いところに胸像がありびっくりした。じっと見下ろされているような感じがしたが、これはクララの胸像で、Raoul Hausmann ラウル・ハウスマンというオーストリアの彫刻家の作品らしい。 |
この刺繍されたものはクララが使用していたものと思われるが、何なのかはわからなかった。 |
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この部屋はサロンとして使われており、ロベルトとクララは、メンデルスゾーン、リスト、ベルリオーズ、ワーグナー等を招いて、ここで自身の作曲した作品を披露していたらしい。 現在は、定期演奏会の場所として使用されている。 |
その部屋の窓から外を眺めてみた。ロベルトが当時眺めていたこの景色を。 |
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1 時間ほど シューマンとクララの世界にどっぷりつ浸かり、外に出た。 |
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